べき論でがんじがらめ

先日のこと。他の講師がやっている「マネージャ研修」のテキストを見せてもらった。
やたらと「~するべき」と記述されていた。マネージャとして、こう在るべき、こうするべきが延々と書いてあった。

吐き気がした「べき論」の連発

あまりに多いので、約30ページからなるそのテキストに出てくる「べき」の数を数えてみると、約350個。途中で気分が悪くなってきた。それこそ吐きそうだった。
「それだけ、しっかりマネージャとして動けていない人が多くなってきているのから、これぐらいでちょうどいいんです。」と言われた。それはそれで理解はできる。だけど気持ち悪いことには変わりはない。
「ほんとにそう思ってるんですか?」と聴いてみた。「いやいや批判する意味でやってるわけではないですよ。」の回答に少し吐き気は収まった。

「べき論」とルールが多い企業の共通点

べき論が多い企業では、やたらとルールをつくる。その土台になっているのは、様々な研修で教わったこと。しかも教わった知識を自社に合ったカタチに変えずにそのまま適用させている場合がある。そうやってルールがどんどん増えていく。ルールを守らせるために更にルールをつくる。まさにルールのためのルール。
べき論とルールでかんじがらめ
ルールが多い企業の共通点は、それだけ仕事に対するモラルや向上意欲、成長意識が低い人が多いということだ。まさしく鎖でがんじがらめになっていて、仕事すること自体に希望を見いだせなくなっていたり、仕事そのものが、只々しんどいものでしかないものになっているようにも見える。
もちろん会社だけの問題ではない。個人の資質として「べき論」が強い人もいるだろう。

べき論を振りかざす人

それでふとクライアントの社員さんのことを思い出した。
「マネージャなんだから、こうするべきですよね。でもうちの上司はそれができないというか、しないんですよ。」と言っていることが多くあるのだ。「べきべきべきべき」言っている。そして否定の塊と化していく。周りに人からも「否定的な人」と言われている。本人の話をよくよく聴いてみると、そういう上司のことはだんだん嫌いになっていったという。あらら・・・という感じ。

このような人は研修などで学んだ「べき論」を使って、上司の至らないところを攻撃する材料に使っている側面がある。それこそ完璧さを求めている。気持ちはわからないでもないけれど、そういうことに使うものではないだろう。

またその「べき論」を教えている講師の意図することでもないだろう。
しっかりマネージャとして機能していない人が多いから、それができるようになってもらいたいという思いからそう言っているだけなので、そこは気をつけてもらいたい。

全てがしっかりできるマネージャを私は会ったことがない。「ものすごく優れている」といわれているマネージャと言われている人には何人にも会ったことはある、それでもテキストなどで書かれている「べき論」から見ると完璧ではない。それが実情です。ただ「ものすごく優れている」と言われているマネージャは、そう在ろうと努力はしている

教えている側の講師にしても、完璧にできているわけではない。教えながらも自分自身に刺さって「ああ、言ってしまってるよ」と痛い思いをしながら伝えているはず。少なくとも私はそうです。ただ解説している時に講師自身の話をする時は、良い事例しか言わないし、克服してきたことしか言わない。失敗で終わった話はほとんどしないだろう。だから講師の言っていることを「正しい」と捉える側面もある。これは講師側の問題でもあることに違いない。

ルールから生まれた仕組みはいずれ形骸化する

話は少しそれるが、ルールは仕組化されている場合もある。仕組にするとそのプロセスにしたがって進めていけば業務は進むし、こなせるようになる。生産性も確かにあがる。しかし出来上がった仕組みとして、そのままずっと続けることには疑問がある。

時代が進むにつれて、テクノロジーが進化し、それにともなって新たな思考方法も開発され、さらに価値観の多様化によって判断の基準にも影響してくる。そうすると従来使ってきた仕組みも形骸化する。形骸化していることに目を向けないで、そのまま続け、その通りやるように指導することに終始していると、その仕事に携わる人は、やがて考えなくなり、支持されたこと、言われた通り、教えられた通りしかやらなくなる。

それではマネジメントではなく、単にマニュアルにしたがってオペレーションしているだけだ。その仕組で動いている社員にしてみれば、つらい毎日が続くだけ。そのうち自分自身の精神を麻痺させていかなければ続かなくなる。強くストレスがたまる一方となりこれはしんどい。


【2020年1月17日追記】
先日、クライアントの引退間近の営業マネージャが会議のなかでの発言。「これまで同じ仕組で、同じやり方を続けて来たけど、これがいつまで続くのかと思うとゾッとする。私自身もずっとなんとかしようとやってきたけど、もう通用しないようになってきているとヒシヒシと感じます。やっぱりある程度は社会やお客さんの変化に合わせて、変えていくことも考えなくちゃね。」彼女は従来の仕組みのなかで、ひたすら工夫してきた人で、確実に成果を出し、周囲からもアテにされてきた来た人なのだが、引退間際になってきて、後輩達のことを思っての発言だったのだろうと思える。

理念とビジョンにより判断する

じゃあ、どうすればいいのかということになるのだが、明確な方法そのものがあるわけではない。ただマネージャに関して私が言いたい「べき論」はただ1つ。

理念とビジョンにより判断すること

「べき論」を語ったり、ルールをつくる時、それは理念に基づいているか?ビジョンに向かうことになるのか?で判断すること。それだけで良いと思っている。

もう少し噛み砕くと・・・
①部下のチカラが発揮できる職場環境を常につくり続けること。
部下の置かれている状況というのは、刻々と変わる。特に現場での変化は激しい。現場の声に耳を傾け、状況に合わせて環境を調整していくこと。

②マネジメントするということはルールによって支配することではないとわきまえること
昔は支配するニュアンスがあったとは思う。それこそ生きることに必死であった昭和初期あたりはモラルも何もあったものではない時期もあったという。だけど経済が発達した今は部下が屋台骨となって支えてくれているのだと思っていてちょうど良い。そのうちまた支配のニュアンスが強くなるかもしれないけれど、きっと違った「支配」が生まれてくるに違いないだろう。

③「べき論」を連発し、振りかざし、上層を批判しないこと
特に中間管理職に多いく、部長や役員レベルになっても中間管理職意識から脱却できていない人に多いのだが、自分自身ができていることなら、いざ知らず、やってもいないことをあれこれいうのは百害あって一利なし。納得いかないのなら、しっかりと上司と話し合えばいいことだ。上司にしても完璧ではないし、絶対ではないので、気づいてくれるかもしれない。

そう在ろうと努力すれば良い。

「べき論」にしてもルールにしても少ないにこしたことはない。
かといって自由度が高すぎるというのも、企業としての統制がとれなくなる。
難しいものだとは思うが、「べき論」をかざす時は、「そうあった方がいい」というレベルのことだと思っていてもいいのではないかと思える。そうやって日々考え、努力を積み重ねていくことが大切なんだろう。

【2020年1月17日追記】
以上の記事は2008年1月16日に書いていたものです。
近年では、SNSで職場テロ的な写真がアップされて、炎上して、不買運動が起き、企業の業績にマイナス影響を与えたというものがありました。こういったものも訴訟沙汰になって、結局賠償問題に発展し、SNSに投稿した人達も社会的制裁を受けました。仕事を楽しむことことと悪ふざけは違うということがわからなかったのだろう。こういうことがルールをつくり、「べき論」を増やすことになり、結果的に自身の自由度を自分で奪っていくことになってしまうわけですね。困ったもんです。

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